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転載元:http://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1469787430/

母親の話を追記しました。

819 : 名無しさん@おーぷん 2016/08/13(土)15:45:03 ID:bPX
シドニー五輪(2004年)の閉会式を見ながら、当時77歳の毒父は「自分は北京オリンピック(2008年)まで生きられない、
これが最後の夏のオリンピックだ」とさも悲しげに言った。





これが普通の父親であれば、「そんな事はないよ」と励ますところだが、母も私も白けていた。父はいつも「もうすぐ氏ぬから、
好きにやらせて」と言って、めちゃくちゃな事をしてきた。駅のホーム・銀行・役所等で列に並ばない・順番を待てないところ
から始まって、いろいろな社会のルールを無視した。交通事故も一年に一回は起こした。わけの分からん姉ちゃんに金を渡して、
いかがわしい行為をしてもらっていた。孫(私の息子)の進学先・就職先にも口を出した。電話魔でいろいろな人に(普通の人の
観点で)用もないのに「大切な事(例えば、痔持ちの自分が便秘で苦しい)」と言って電話をかけた。父は「問題行動のデパート」
「苦情収集機」のようなクソ毒父だった。若い時は「女性問題の専門店」と呼ばれた人だった。

父は「自分は高齢」という口実を得て、ますます言う事を聞かなくなった。多くの医者からは出禁にされ、処方箋を持たないのに
薬局に自分の考え通りの薬を「よこせ」と言って警察を呼ばれた。少しでも具合が悪いと病院に行き入院して、自分勝手な行動で
追い出されることを繰り返した。東京は病院が多いから父がいくら追い出されても、行ける病院が尽きなかった。
家族である母や私が呼ばれ、「監督不行き届き」で叱られた。母や私が咎めると、父は「うるさい」「放っておいたら良い」と言う
だけで行動を改めなかった。
父は兄弟が多く、家が貧しかったので、父は祖父(父の父)から「いらない子」と言われて育ったらしい。祖母(父の母)が父の
看病をしようとすると祖父が「氏んだら良いから放っておけ」と言った事を悔しそうに私に話したことがある。祖母は早くに亡くなった。
父は若い頃に結核になって「自分は長く生きられない」が頭にこびりついたせいか、「生きて居るうちに好きな事をする」がモットーとなり、
周りの迷惑を考えない、とんでもなく迷惑な人間になった。
そんな父が家で転倒し階段から落ちて入院した。やはり、入院先でも医師・看護師の言う事を聞かず、めちゃくちゃな行動があり、
高齢もあって「認知症」の診断が出て精神病院に転院することになった。
精神病院では、今までの病院のような医師・看護師の方々の「困ります!!!!」「何ですかあの人は?!!」的な反応がないので
私はその点では楽だった。
父は精神病院で、心が穏やかになる薬を処方され、怒鳴らなくなっていった。かわりに幼子の様に看護師に甘えて、かまってもらい
たがるようになった。
亡くなった時、父は穏やかな顔していた。「生きて居るうちに好きな事をする」。そんな人生で父は楽しかったのだろうか?ただただ、
お母さんに優しくされ、何でも許され、かまってもらいたかったのだと思う。それは社会のどこにも無かった。無いものを探し続けて、
周りの人を不幸にして父は2016年リオ・オリンピックの直前に亡くなった。
821 : 名無しさん@おーぷん 2016/08/13(土)16:10:28 ID:LP0
さっき帰ってきたうちの宿六も
好き勝手やる人生だったなあ
今もエアコン入れた途端に帰って来やがった
最期まで好きにできたから幸せだったんだと思う
こっちは振り回されてたからほっとした気持ち
しかし自己主張の強い男だ
毎回チャイム鳴らしやがる
822 : 名無しさん@おーぷん 2016/08/13(土)17:17:30 ID:fc8
>>819
すごい気になったんだけどシドニーオリンピックは2000年で2004年はアテネオリンピックだ
823 : 819 2016/08/13(土)18:40:54 ID:v5D
>>822
記憶違いでした。
北京の一つ前のオリンピックの閉会式を
見ながら「次は北京」」のアナウンサーの
発言を聞いて父親が言った言葉です。
なぜかシドニーの閉会式だったと思い込んでいました。
失礼しました。




転載元:https://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1534037451/

799 : 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)04:22:14 ID:8Hm
抜歯して部分入れ歯を使うようになった。それがきっかけで昔を思い出した。
私の母は恩着せがましい人だった。
浮気ばかりして同時進行に複数の愛人を持つような父と離婚しないのは、「お前(私)の就職や
結婚に差し障りがあるから、お前の為に我慢した。」といつも私に言っていた。

私が小学生の頃、母が私のブラウスにアイロンを当てていて、母は自分の額の汗を示して
「お母ちゃんはこんなに汗をかいてお前のブラウスにアイロンをかけているんだよ」と大声で私に
言ったこともあった。母はトイレを掃除したら「トイレを掃除してきた」、ゴミを集積所に持って
いったら「ゴミを出してきた」等々、あらゆる家事を行ったらそれをやった事を父や私に話し、
私の母へのねぎらいの言葉や称賛が不十分だと怒った。父が不在の時には私をナグった。

そんな母のお気に入りの話の一つに「お前を産んだから私(母)の歯が悪くなった」と言うのが
あった。母は歯を磨くたびに「お前を産んだから〜(以下略)」と私に言った。あまり頻繁に
言うから私の方から「お母ちゃんは私を産んだから歯が悪くなったんだね」と言うようになった。
私がそう言うと母は満足げにニコニコ顔になった。
ある日、母と買い物に行った時、近所の人に会った。その人は歯医者の帰りで母は「私も歯医者に
行かなければいけないのだけど、なかなか行けなくて」とその人に話した。そこで私はすかさず
「お母ちゃんは私を産んだから歯が悪くなったんだよ」と言った。そう言ったら母もその人も
ニコニコしてくれると思って言った。

しかし、その人はビックリした顔をした後、黙って母の顔をまじまじと見ていた。母は何も
言わなかった。私はニコニコしながら母を見上げていたが、なぜ母はニコニコしてくれないのだろう?
と不思議だった。何か良く分からない言葉をその人が低い声で母に言った後、その人と別れた。
帰り道、母は無言だった。私は家に帰ったら母にナグられるか怒鳴られるに違いないが、何故かが
分からないから「どうしよう、どうしよう」と、心の中がものすごい修羅場だった。
だが、意外にも母は私に対して何もしなかった。そして、それ以降、母は私に「お前を産んだから〜」
の話をしなかった。私も母が歯を磨いていてもその話はしなかった。
しかし、その後もそれ以外の恩着せがましい事は言い続け、称賛も求め続けていた。
800 : 799 2019/02/08(金)04:23:07 ID:8Hm
後年、私は結婚して子供を産んだ。そして私も歯が悪くなった。でも、子供に対して母のような事を
言う気にならなかった。むしろ、この子が元気に生まれ育つのだったら、私の歯でも骨でも何でも
使ってくれてよいと思った。そして、母は私を産みたくなかったのだとはっきり認識した。
本当はそれは既に分かっていた事だけど、はっきり分かった時は少し悲しかった。

それから長い年月かけて私は少しづつ、母に言い返したり、母を否定して自分で自分を癒してきた、
絶縁はしなかったが、私は高齢の母を引き取って同居するのも、「毎月、1週間程帰省して私(母)の
世話をしろ」と言う母の要求も断った。母はまだ要支援1だから自分で生活できる。
しかし、母曰く「お前の為に」母は老人ホームに入居した。

今もなお母は私に感謝と自分への称賛を求める。「私(母)が歩いてトイレに行けることをお前は
感謝すべきだ」と私によく言う。「この年(90歳)で生きていて寝たきりではない事はスゴイ事だ」と
称賛を求める。
私は母の他界を一日千秋の思いで待っている。母が永遠に生きて私の寿命の方が先に尽きる気がする時、
心の中が修羅場となる。
802 : 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)10:23:00 ID:crZ
>>799
言葉にできない苦労をなさったわね。
今のあなたご自身のお子様もずいぶん大きいでしょう。
なにかとおつかれさまでした。

思い出したくないことなのかもしれないけど、
お父様がしょっちゅう浮気にはしった詳しい理由とか、
おうちの暮らし向きとか、兄弟姉妹のこととか、
あなたがどういう人生を歩んでいらっしゃったのか、
差し支えなければ、教えてくださる?
803 : 799 2019/02/08(金)13:20:01 ID:8Hm
>>802
レスをありがとうございます。

父が浮気を繰り返したのは、あのような母と一緒に過ごしたくなかったからだと
思います。そして、父の浮気が母の異常な承認要求を掻き立て、それがまた、
父が家庭から遠ざかろうとする・・といった悪循環がうまれたと思います。

私は両親の事で心の中に澱のようなものが溜まって苦しくなると、おーぷん2chで
吐き出させて頂いています。皆さまのレスを読ませて頂き、やっぱりあの人たちは
異常だったのだと自分に言い聞かせています。それがなければ私はとうに狂っていたと
思います。PC画面の向こうの見えない方々に感謝しています。

父は自分の人生は自分の好きに生きるという人でした。
父の事は以前書かせていただきました。
https://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1469787430
の819の「次のオリンピックまで生きられない」とつぶやいた父です。

母は公務員で共働きだから家は経済的には豊かでした。だから、離婚しようと思えば
できたのですが、799でのように「お前(私)の為に我慢」し定年退職しました。
私には腹違いの兄がいましたが、兄は母と折り合いが悪く高校を卒業後、家を出て
いきました。幼い頃は兄とは仲が良かったですが、私の結婚式で母が兄に
出席しても目立つなと言ったらしく、それ以降は疎遠になりました。私がその事実を
知ったのは何年も後で取り返しがつかないまま、年月が経ちました。

私はお見合いで結婚し、子供を産んでから両親に疑問を持つようになりました。学生時代、
母は私が恋愛をするのを全力で阻止しようとしたのですが、私が26歳を過ぎると突然、
「なぜお前は誰とも結婚できないのだ」「お前は女らしくないからだ」と怒り出しました。
両親の様子を見ていた私は全く結婚する気はなかったのですが、父と母に毎日毎日、
責めたてられお見合いをしました。しかし、結婚する気がない私がお見合いをしたとて、
お相手もそんな私を見てお断りされることが続きました。
両親は私がお相手に断れらたら激怒し、「こんな良い人を捕まえられないお前が
おかしいからだ」と怒っていました。
ある時、紹介してくれた人の事を両親が気に入りませんでした。どこか気に入らなかったのか
良く分からないけれど、「こんな人を紹介するなんて」と仲人さんの陰口を言っていました。
しかし、その人が私は一番良いと思って結婚しました。
今でも母は夫の事を気に入りません。夫とは穏やかな日々を過ごさせて頂いています。
「母が居なくても私は困らない。居ないほうが心が安らかだ。だから私は極力、母も父も氏んだと
思って暮らそう」と日々過ごしています。が、時折、母が永遠に生きるような気がするのです。
長文を書き、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました。
804 : 名無しさん@おーぷん 2019/02/08(金)16:54:01 ID:aMJ
ありがとうって母に感謝を伝えたり、
トイレ掃除やゴミ捨てなど小学生でもできることは手伝ってたのかな
母に言われてではなく自発的に
805 : 799 2019/02/08(金)17:19:00 ID:WPV
>>804
おっしゃる通りです。この「自発的に」が私の幼い日々の命運を握っていました
母に言われる前に私から手伝い、母の労を労わないと母は怒り狂いました。
仕事から帰って来た母に毎日「お仕事お疲れ様」的な事を一生懸命言わないと
母が帰宅するまでに私がやっておかなけければならない家事の出来具合を叱責されました。
進学やクラブ活動を選ぶのも、母の望む事を母より先に「自発的に」言わないと
何時間も「お前は何も分かっていない」と叱責されました。
804さんが母の事をよく分かっておいでなので、ちょっと驚いています。
806 : 名無しさん@おーぷん 2019/02/09(土)01:05:41 ID:XZS
うちの母も入れ歯で私を産んだせいでってよく言ってたな
子供心になんでそんなこというんだろって思ってた
799さんとこみたいな毒親ではなかったけど恩着せがましいところはあるから気持ちはわかる

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